北朝鮮旅行記

韓国紀行4(10):5月19日:束草・洛山寺、ケッペ、ソウルへは飛行機で(by 旅人のくまさんさん)

北朝鮮
<1995年5月19日>

<洛山寺(ナクサンサ)>
 束草から南に8km程度の海岸に面したところに、関東八景の一つ、洛山寺はありました。新羅時代に義湘大師によって建立されたという古刹です。
 洛山寺の少し南は、洛山海水浴場になっています。海岸線はほとんど鉄条網で防御されていますが、一定範囲では海水浴場も造られているようです。少し記憶が薄れましたが、要所、要所の突堤などに見張台が設えてあり、厳しい監視がされているようでした。
 この洛山寺の近くには、大きな観音像があります。戸外に建っていますので、遠くからでもよくその位置が確認できました。海水観音菩薩(ヘルカヌムポサツ)と呼ぶらしい。ガイドブックで調べましたら、1978年の製作で、台座が2.8m、本体が16mあると記されていました。迫力満点の像です。
 

<束草からソウルへは飛行機で>
 Otさん念願の束草の手漕ぎの渡し、ケッペにも乗船することが出来ました。こちらは泊まったホテルから10分以内で歩いて行ける距離でした。
 昨日のことがありましたので、少し気を揉みましたが、束草からソウルへ向けての飛行機は、無事に飛び立つことが出来ました。束草の街から飛行場までは、車で30分とはかかりません。
 この飛行場は、少しもやった時に,飛び立つことは易しいですが、降り立つことが難しい地形なのかも知れません。飛び立った後は、一旦、東海(日本海)の海上へ出て、右に旋回して金浦空港へ向かいました。
 左旋回しないのは、誤って北朝鮮の領空に入らないための用心のようです。それほど束草は北に近い街です。それと、一旦海上に出るのは、飛び立って直ぐに、高い山脈を越えるのを避けるためであるのかも知れません。
 韓半島の東側は雪嶽山を含め、高峰が連なっています。ソウルまではこの山脈を越えて、ほとんどまっすぐに西進しました。山脈を越えた後は余り高度を上げませんので、曲がりくねった山道や、民家など、地上の様子がよく見えました。昨日5時間もかけて苦労した道のりを、わずか30分程で金浦空港に到着しました。

<ガイドさんから聞いた韓国住宅事情>
 ガイドさんからは、現在の韓国事情や、彼女の家庭のことなど、色んな役に立つ話しをお聞きしました。例えば、韓国の住宅事情ですが、ソウル市内の南部一帯が高級住宅地になっていると言います。しかし、あまりに都市化が進んだので、戸建に住むのは難しく、みんなマンションになったようです。
 このマンションは3億から4億ウォンもすると言います。日本円で3千万から4千万円に相当します。韓国の平均収入が日本の2分の1であることを考慮しますと、日本円では6千万から、8千万円にも相当します。いわゆる日本の億ションに近い値段です。
 この高級マンション群があるソウル市南部に住むのが、一つのあこがれになっているとお聞きしました。この地域以外では、少し値段が安くなるといいますが、それでもソウルの住宅事情は、日本並か、それ以上に厳しいようです。
 市内観光のマイクロバスの中から、それらの高層マンションを教えてくれましたが、造りそのものは、高級と言った感じはしません。極めて実用的な外観をしていました。

<ガイドさんから聞いた韓国の受験戦争>
 ガイドさんは日本の受験戦争のことは知っていると言われました。しかし、

 「韓国での受験戦争は、日本よりもっと凄いです」
 
 と断言されました。

 「自分の弟も、今大学の受験勉強中です」

 とも教えてくれました。なぜ大変かと言いますと、

 「韓国では男子の兵役義務があるから、何としても大学に入学させたい」

 と、親が頑張らせるそうで、ガイドさんの家庭も同じだと言われました。もし、大学入学できないと、直ぐに兵役義務が待っていて、入学できれば、免除ではなく、兵役義務が延期されるようです。ガイドさんは、

 「自分も大学に行かせてもらえたので、今は弟を精一杯支援している」

 と熱を込めて話してくれました。

 「一流の大学を出た後は、国家公務員が一つのコースです」

 とガイドさんが教えてくれました。これも日本と同じ事情のようです。もっとも、この回想記を書いている1999年では、日本も、韓国も国家公務員に対する見方は大分事情が変わってきたようです。
 事情が変わった原因は、経済危機、腐敗・汚職、行政改革と言ったキーワードが、どうやら共通しているためのようです。経済危機も浄化作用を伴うものであれば、歓迎できる点もあります。


  洛山寺を回想して
 古寺や東海を望む遠霞

 夏近し岩を伝いて寺参り

 潮騒が歴史を語る寺の春

 韓の国司馬遼偲ぶ松若葉

【旅行時期】1995/05/18~1995/05/20
【エリア】束草
【テーマ】
【投稿者】旅人のくまさん

韓国紀行4(4):5月3日:春川から昭陽湖の船旅を経て束草へ(by 旅人のくまさんさん)

北朝鮮
<1995年5月3日>

 春川(チュンチョン)から、次の目的地の束草(ソクチョ)までの行程は、韓国と北朝鮮の国境(正式には停戦ラインか)に近く、実際に相当の緊張感を持つ場面に遭遇しました。
 その一つが道路の至る所の検問です。バリケードで、2度に亘って自動小銃を持った憲兵がバスに乗り込んできました。後で分かったことですが、主に休暇違反等の兵隊を取り締まるのが目的らしく、民間人に対しては丁寧な対応でした。
 実際に一人の兵隊さんがバスから引きずり降ろされるのを目撃しました。バスターミナルで切符を買おうとして、駅員と何か言い合っていたので、記憶にあった人です。迷彩服を着て、がっちりしていましたが、少しむさ苦しい感じの若い兵隊でした。


<昭陽湖(ソヤンホ)・船の旅>
 昭陽湖は満々と水を湛えていたかのようでしたが、実はそうではありませんでした。例年にない渇水で、当初の目的地の麟蹄(インジェ)まで達することはできず、途中で船を下りることになりました。
 降りた場所がどこかが正確に把握できませんでした。目的地からは大分手前、ひょっとしたら半分くらいの距離だったかも知れません。とにかく、細かい地図を用意していなかったので、この後は、大分苦労しました。
 昭陽湖は人工湖です。水瓶としての役割も大きいようです。農業用、工業用とそれに飲料水としてです。あるいは、首都ソウル辺りまで送水しているかも知れません。
 観光パンフレットには、その辺のことは、詳しくは書いてありませんでした。軍隊が多く配備されているのは、『国境警備の為だけでなく、このダムを守る任務も大きいのかも知れない』と推測してみました。ダムや橋梁、主要道路などは、重要な軍事施設に該当するでしょうから。
 ところで、昭陽湖の船旅は少し退屈してしまいました。人工湖であるために、ほとんど同じ景色が繰り返し続きました。エンジンの単調な音と相まって、つい、うとうととしました。しかし、これも貴重な旅の経験でした。

<楊口(ヤングー)へ>
 船を下りた場所がの地名が良く分かりませんでした。渇水のせいで、船着き場は随分低い位置にありました。それで、岩場を登って道路に出ました。
 道路は船の進行方向の左側、北側だと記憶しています。上の道路は、何とかバスは走っているようでした。それでも他にお客は居ないし、いつバスがやってくるかも見当が付きませんでした。
 とにかく、やって来たバスに乗ることにしましたが、途中で、もう一度乗り換えることになりました。船着き場から取りあえず次の街へ向かったバスは、運転席の前が切り立ったタイプではなく、ロングノースのクラシックカーでした。これは余り確かな記憶ではないし、実はそんな余裕もありませんでした。しばらくは干上がった昭陽湖を見下ろしながら走りました。暫く並行して走ったことで、渇水が相当なレベルであることが実感できました。
 辿り着いた乗換えのバス停も、良く地名は分かりませんでした。この旅行記を纏める前までは、頭の片隅にヤンヤンと言った言葉が残っているだけでした。改めて調べましたら、ヤンヤンは束草の南に位置する町、「襄陽」のことでした。
 『ヤングーよりもヤンヤンに行った方が、ソクチョまでは便利がいいですよ』と言ったアドバイスを、Muさん経由で聞いた記憶が確かに残っています。
 結局、この辺りで最も大きな街である楊口へ向かうことにしました。Muさんが周りの人に様子を聞いて、最終的に判断した行き先でした。後日、この時のことが話題になり、結論は楊口に行ったのが正解のようでした。
 楊口は春川より更に北に位置し、ここでも厳しい国境近くの街であることを認識させられました。乗り換えた後のバスであったと記憶していますが、同じバスに2度憲兵が乗り込んできて検問を受けました。
 その一回目の検問で目撃したことである。隊長とおぼしき人はまだ若い軍人でした。30に手が届いていなかったような若さでした。真っ白いモールを肩から下げ、自動小銃を手に持っていました。前のドアから乗り込んでくると、きりっとした敬礼をしました。その後、少し笑みを湛えた顔で、検問であることを韓国語で告げたようです。
 この隊長に続いて、2名の憲兵がバスの検問を始めました。こちらはMPのヘルメットを被り、白いモールは着けていませんでした。
 その時、少し大きな声がして、バスの最後尾付近に座っていた兵隊が後ろのドアから引きずり降ろされました。バスの窓から覗きますと、検問場所の建屋に連れて行かれようとしていました。この若い隊長は、何事もなかったように、敬礼をしてバスから降りました。
 この間、バスの運転手さんも何事もなかったように、運転席に座ったままでした。ひょっとしたら、いつもの光景かも知れませんでした。
 憲兵による検問は、規律違反の兵隊を取り締まるのが目的だったようです。地元の民間人の客は、終始冷静でした。しかし、さすがに引きずり降ろされた兵隊に対しては、窓からのぞき見たり、お互いに小さな声で囁きあっていました。
 後日の話です。

 『最近の若い兵隊は、規律を守らないので、困ったものだと皆さんが言っている』

 と言う話しを聞いたことがあり、

 『日本でも大変ですが、さすがの韓国でも、最近の若い人を躾けるのは大変ですね』

 と言った話題があった気がして、この時の記憶を呼び覚ましました。
 この話題は、この直ぐ後に行った慰安会旅行でのことではなかったかと、思い当たりました。この時は目撃したばかりであり、つい、現地ガイドさんに話してしまったようです。それで、彼女がこの件の背景を説明してくれたものだったと、符丁が合いました。ここでも辛うじて記憶の糸が繋がりました。

<束草(ソクチョ)へ>
 楊口までたどり着くと、後は束草へ向かうのにそんなに苦労はしませんでした。ここからもバスを使いました。私自身は、束草は初めて訪れた町でした。
 この町の北緯は38度を超えています。朝鮮戦争の前は、北朝鮮の区域であったところのようです。水産物、とりわけ烏賊、オジンノ水揚げが韓国一の港町です。
 烏賊釣り船は灯りをともしますので、アメリカの宇宙衛星で撮った夜間の写真が印象的でした。これは、最近の10年間の変化を紹介した新聞写真でした。韓国の北と南では、烏賊漁の最盛期では、海上の灯りがまるで異なっていました。日本の船も出漁して、日本海、東海の夜は賑やかです。
 この賑やかさと比較し、北の区域は夜は真っ暗であり、この10年間で更にその傾向が強くなっていました。アメリカの衛星写真も、本当の目的はこんな北朝鮮の国情把握にあるのでしょう。北の夜は、灯火管制でもやっているのではないかと思うくらい、漆黒の闇です。その原因は深刻なエネルギー不足にあるというのが、新聞解説でした。

<束草での宿>
 束草の町へ着いたのは夕方でした。昼過ぎだったかも知れません。のそれから宿探しでした。近くに雪嶽山と言う有名な観光地があり、束草自体も観光に力を入れているようです。それで宿は沢山見つかりました。
 その内の民宿(ミンパク)クラスに見当を付けて交渉しました。その宿は3、4階建ての細長いビルになっていました。階段を上った2階にカウンターがあり、そこに少し年輩の女性が店番をしていました。
 宿の交渉役は、Muさんです。日本語は全く理解できないようでした。年の頃も50代と言ったところです。60を越えた方でなければ、地方では、日本語がまず通じません。それでもわけなく交渉が成立しました。
 それぞれに部屋を使って、1人1泊2万5千ウォン程度でした。観光地にしては安い値段です。この後1998年に旅行した時に、綿密に会計を付けました。この時も、1人当たり2万5千ウォン、3人で7万5千ウォンと記録してありましたので、まず間違いありません。1998年の5月1日と2日のそれぞれの宿泊費です。
 ここまで調べた時、『この宿には2回泊まって、1回は1泊、もう1回が2泊した』との記憶が蘇ってきました。それで、1998年の記録から消去法で推察しますと、1回目の時にこの宿に泊まったのは、1泊だけではなかったかと思い出してきました。
 2泊した時も、連続2泊は取れなかったので、1日毎に料金を支払った記憶がありました。これは記録に残して置きましたので、間違いありません。とすると、この時の旅で2泊した宿はどこだったのか、またまた疑問が湧いてきました。
 ここで、旅の半ば頃に、『毎日1泊づつは、荷物が大変なので、ここらで2泊しようか?』と、Muさんが尋ねたので、即座に了解した記憶の断片が思い出されました。とすると、2泊したのは安東か慶州に違いありません。この旅行記を書き進めながら思い出すことにしました。
 記憶の糸をたぐりながら、あちらこちらから書き始めたので、ここまで書き進んだときに、5月4日のことは、既に大方を書き留めていました。
 その日の分には『薄れかけた記憶を辿ってみると、最初の旅行で束草の旅館に2泊した気がしてならない』と記述していました。全く当てにならない記憶力です。証拠主義ではないが、何か客観的な判断材料がなければ、記憶だけに頼るのは、なかなか大変なことです。
 そんなことで、これから先は順を追って、改めて時系列で記述することにしました。

<束草の町>
 荷物を宿に預けることができましたので、動きやすくなりました。それで早速近くを回ってみることにしました。束草は漁港だけあって、港付近には水槽に鮮魚を泳がせた飲食店が軒を並べていました。店の呼び込みも必死でした。
 町自体はさほど大きくありません。港を中心にした城下町のような構造です。ほぼ町の中心を走る道路に沿って移動しますと、あっという間に郊外に出てしまいます。
 Muさんはこの町は経験済みなので、

 「確かこの町に大韓航空の営業所がある」

 と言いいます。そろそろ帰りの便のリコンファームを済ましておかなくてはなりません。

 「この南北の道路沿いにあった筈だ」

 と言うので、余り大きくない町を歩きながら、その営業所を探しました。大きくはない事務所なので、少し手間がかかりましたが、何とか探し出して用事を済ますことができました。
 航空会社の事務所であっても、さすがにこの地方まで来ると、日本語は通じません。普段、日本人客が立ち寄る事は無い事務所でしょう。
 夜は宿の近くの鮮魚料理店で夕食を済ませました。この界隈では少し大きめの店でした。民宿からは目と鼻の先です。この店で、多分、メッチュにショジュを頼んだ筈ですが、それはどうでもよいことです。値段は余り安くなかったような記憶です。しかし、日本人客だというので『ぼられた』と言うまでの値段ではなかったとも記憶しています。


  昭陽湖の船旅を回想して
 梅雨待つや赤き地肌の続く崖

 国境近き太湖や春を行く

 春光に暫しまどろむ船の旅

  楊口へ向かうバスの中で
 敬礼の白手袋や春凍る

  ソクチョを回想して
 春の夜に酒酌み交わす北の果

 オジンオを一つ覚えに春の宴

 白砂の春を遮る鐵の鞠

 人影の無き砂浜や春の波

 漁り船灯かざして春の海

 東海や日本に続く春霞

【旅行時期】1995/05/01~1995/05/08
【エリア】春川
【テーマ】
【投稿者】旅人のくまさん

韓国2008 暑すぎて・・・夏 4日目。(by toccyaさん)

北朝鮮
今日は、旦那さんが楽しみにしていた『板門店ツアー』です。
北朝鮮との境界線に向かいます。
少しばかり、緊張感のあるツアーです。

【旅行時期】2008/08/09~2008/08/13
【エリア】ソウル
【テーマ】
【投稿者】toccya

Eritrea(by kmさん)

北朝鮮
エリトリア

*アフリカ一若い国
エチオピアから30年に及ぶ戦いの末独立を勝ち取ったアフリカで一番新しい独立国、それがエリトリアだ。この地を失えば紅海へのルートを失い内陸国になってしまうエ
チオピアは、エリトリア独立をなかなか容認せず、エリトリア独立戦争は30年にも及
んだ。そんなエリトリアでは自由よりも快適さよりも平和と協調がより重要の価値に
なっているように見えた。
例えば、店の看板・広告・車のナンバー・・・目にする文字全てがティグリニア文字
(エチオピアのアムハラ文字と共通)、アラビア文字、そしてローマ字の3種類表記
だ。田舎の村では、ローマ字表記ないものがあったが、ティグリニア・アラビアの文
字はいつも仲良く並んでいた。この国ではキリスト教(ティグリニア文字使用)・イ
スラム教徒(アラビア文字使用)が50%ずつ丁度拮抗しているそうだ。南に「キリスト教国」エチオピアを、西に「イスラム教国」スーダンを抱える小国エリトリアは、ひとたび宗教対立・民族対立が顕在化してしまえば常に周辺国の介入を招き戦争に突入してしまう危険がある。30年掛けて勝ち取った平和を大切に守っていこうという意気込みが、看板一つ一つから伝わってくるような気がした。
なお、キリスト教といっても、この国の主流はカトリックでもプロテスタントでもな
い。ヨーロッパ列強がアフリカに進出してくるはるか以前から存在していた正教
(オーソドックス)だ。英語の分かるエリトリア人は、Greek(ギリシア正教)だと
いっていた。対エチオピア感情が悪いので認めたくないのは分かるが実際にはエチオ
ピア正教と教義が同一だ。

*30年ぶりの帰国
いつかエチオピアから陸路で行くと決めていた国、エリトリア。一向に開かれない陸路国
境をあきらめ、空路訪問することにした。まず問題になるのが入国ビザの手配だ。かつて在日エリトリア大使館がなかった頃は在中国大使館と国際電話・FAXでやり取りしたが結局ビザは取れず、さらにイエメ
ン他周辺国でビザを取得しようとしたときも大使館閉鎖またはビザ取得に時間がかか
るということであきらめ、結局ビザが取れないがために行きそびれてしまっていたのだ。近時開設された在日エ
リトリア大使館でようやく取得したビザに興奮していると、今度は別の問題が。カイロ-アスマラの直行
便は乗客過少のため日本発直前にキャンセルを決定したというのだ。周辺に友好国が少ないエリトリア
では当然空路アクセスも限定される。2日後のジェッダ経由で入国せざるをえない。
私としては数ある苦難を乗り越え待ちに待った訪問のつもりだった。しかし、私よりも遥かに渡航を待ちわびていた人がいた。

それは、JEDからの飛行機隣の席の「エリトリア人」S氏、なんと30年ぶりに母国に
「帰国」するのだという。39歳のS氏は9歳で戦火を逃れ両親とスーダンに出国、長いサウジ亡命
生活を経て、今はイギリス在住、イギリス国籍を保有している。ビデオカメラ片手に
静かに興奮しているS氏に私は尋ねる。1993年5月に国が独立してから12年もたつと言
うのに、今まで何故戻ってこれなかったのかと。エリトリア系妻との間に4人の子供
を持ち、ロンドンで小さな食材店を営むS氏は私に答える。「That is the life!」
 人生とはそんなものらしい。

機内を見渡すと、散見される赤白チェックのカフィーヤ(典型的サウジ風着こなし)
を被った男たち。彼らも長くサウジ生活を送ってきた「エリトリア人」だそうだ。S
氏は、国民食インジェラも、蒸し暑い環境も大好きだと言う。奥さんはエリトリア系で家庭では。誘惑の多いロンドン暮らしにもかかわらず酒は飲まない敬虔なムスリムで、子供たちをコーラン学校に通わせているという。S氏は30年間の異国暮らしを経てもなお「エリトリア人」なのだ。

* 深夜の屋台で Y君のこと
フレンドリーな挨拶はあたりまえ、英語もなぜかよく通じるこの国で、フレンドリー
に英語で話し掛けてきたYに、はじめは違和感を覚えなかった。なにより、屋台で現
地食を素手で食べている彼は現地人にしか見えなかった。でもいわれてみれば彼は現
地では見られないデニムの短パンを履いているし、現地の人は彼に英語で話し掛けて
いる。アメリカ育ちの彼は、本当に現地語が話せないのだ。そしてアメリカに住んで
いなければ習得し得ない流暢なアメリカの黒人英語を話している。落ち着いた性格。
うそつきではなさそうだ。彼の、モロッコでの、アメリカでの、イスラエルでの、そ
してケニアでの信じられないような一連の話はきっと本当なのだ。
冷戦下ではエチオピアをサポートしたソ連に対抗し、アメリカがエリトリアに拠点を
置いたのだろうか、Yによるとエリトリアに米軍基地があったらしい(真否未確認、
というか確認できないので間違いではないか)。アメリカ軍人だった養父とともにア
メリカに渡り、アメリカで育ったが、わけあって一人マッサワに住むY。仕事もな
く、夢もない。町全体が遺跡のようなマッサワの蒸し暑い夜、猥雑な音楽をバック
に、僕らは、夜更けまで話しこんだ。


* 日系米人Oさんのこと
何度も間違えながら思い出し手帳に書いてくれた縦書きの名前には見たことのない虫偏の漢
字が含まれていた。人の名前に虫偏はありえないでしょう・・・と思いつつ、帰国後調べて
みると、「蛟(みずち)」、龍の一種らしい。太平洋戦争中日系アメリカ人を強制収
容するためのキャンプである、悪名高きマンザナールその他3つのキャンプを転々と
しながら幼少時を過ごしたO氏は、マンザナール「同級生」のゴードンサトウ氏のマ
ングローブ植林プロジェクトを視察するため1999年にマッサワを訪れた。その数ヵ月
後には、この地でリタイアすることを決意し、移住。以来、6年になる。日本には戦
後日本に戻った父とともに数年博多に住んでいるということで、片言はなせる日本語
は博多弁だ。「(終戦直後は食べ物がなくて、)町の人、困っとったんよー」。珊瑚でできた古い家が並ぶ、蒸し暑く眠たい港町マッサワ、波乱万丈の人生を送ってきたOさんがゆっくり老後を楽しのにぴったりのような気がした。

*勤勉で清潔好きな国民性
オイルマネーで外国人労働者に清掃させているリビアは別として、自国民が自らの意
思と努力ででこれだけ清潔さを保持しているアフリカの国を私は知らない。首都のアスマラと
マッサワを結ぶルートしか知らないが、道端のごみが少ない。朝6じ頃アス
マラの町を散歩してみると、雑巾で車体をぴかぴかに磨いているタクシードライ
バー、店の窓を腰をかがめて拭く女の子、家の前を箒がけしているおばちゃん、そん
な人たちを多く目にする。綺麗なことは気持ちのいいこと、アフリカを旅していると
忘れかけてしまう感覚を取り戻すことができる。

その他
*両替レート撮影で尋問
世界には、独自の通貨というものがありながら、外国人旅行者には外貨払いが法律上または事実上強要される国々が存在する。北朝鮮などの孤立した国、セイシェルなど観光地もそうだった。国家が外貨獲得に必死なのだ。エリトリアも国家による外貨コントロールが厳しい点は共通だが、特殊なのは、現地通貨を使用すること自体はでき、ただ一定の銀行で公定レートで両替しなければならないという点。アルジェリアと一緒だ。このような国はたいてい闇レートというものが存在するのだが、現地人には外国人と両替に応じたり外貨を直接受領すると罰則が適用されてしまう。外貨払いを直接町ですることはできず(罰則を恐れて町の人が受け取ってくれない)、両替は多めにしなければならないが、いったん現地通貨にしてしまうと外貨に際両替するのはとても大変、という困った国なのだ。タクシードライバーによると外貨管理は年々厳しくなっているそうだ。ユニークな公定レート一覧表を記念に撮影しようとすると、・・・・。両替レートは重大な国家機密らしい。国民の外貨取得の自由を規制している点がニュースになってしまうのを恐れているのではないか。

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  • 【旅行時期】2005/04/~2005/05/
    【エリア】エリトリア
    【テーマ】
    【投稿者】km

    Libya(by kmさん)

    北朝鮮
    Tunis-Tripoli-Cairo

    - Leptis Magna 子供にとってはただの岩の集積場。遊び場になってる。砂に埋も
    れていたため保存状況がよい。

    - Gharyan
    中東北アフリカ一帯で見られるローマ系遺跡には飽き飽きなので、Sabrata行きに変えて山方面に行ってもらう。こ
    れが大正解。
    郊外の竪穴住居がよかった。観光化すべくホテルにするというものもあったがガイド知り合いの個人の住宅裏で素朴な本来のものを見学できた。

    ー Medina
    チュニジアモロッコとちがい観光客こないだけにかなり面白い。北朝鮮と違って、コ
    ントロールされていない純粋な社会が見れる。人種も国籍も超えて、スーダン人もア
    ルジェリア人もアラビア語ひとつで繋がってる。サハラを15日掛けてわたってきた
    ガーナ人。床屋はガーナ人が多い。コートジボアール人のミシン屋。12Cのモスク シーシャ 
    街道沿いにズラリ並ぶ職探しエジプト人
    らくだ肉クスクス
    -Tajora
    温泉 気持ちいい
    北アフリカアラブでスーダンと並びリビアにはハマムがない。背景が知りたい。そもローマ期限らしいがトルコ経由なのかアラブ経由なのか。
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  • 【旅行時期】2005/04/~2005/05/
    【エリア】リビア
    【テーマ】
    【投稿者】km